「無矛盾」ならば「無矛盾であることが無矛盾」?

ゲーデルの第二不完全性定理により、適当な条件を満たす任意の公理系Tについて、Tの無矛盾性を表していると解釈できる文Con(T)が存在して、Con(T)はTにおいて証明不可能です。
これは、命題Aが公理系Tで証明不可能であることを
T /\vdash A
とかくことにすると
T /\vdash Con(T)
と表されます。
ここで、TとしてT+Con(T)を考えてみると、
T+Con(T) /\vdash Con(T+Con(T))
となります。
したがって、演繹定理により
T /\vdash Con(T) \rightarrow Con(T+Con(T))
が得られます。
このことの意味を誤解を招きやすいように表現すると
Tは「自分が無矛盾であれば、自分が無矛盾であることも無矛盾」であることを証明できない…(1)
ということになります。
さらに、「無矛盾」を「正しい」とでも言い換えると
Tは「自分が正しければ、自分が正しいことも正しい」ということを証明できない
となります。
これは一見すると奇妙な事態ではありますが、Tには人間のように意識があるわけでもなく、したがって「無矛盾」という概念など理解できるはずもないのですから、おかしなところは何もないのです。
それから「自身の無矛盾性」やら何やら、日常的な言葉を使っていますが、これらは数学的にしっかり定義できることにも注意を払う必要があります。
この辺の事情が、ゲーデル不完全性定理が一般に誤解されやすいことの一因となっているように思います。
例えば
玄妙基数は弱コンパクト
などという数学的命題は、専門外の人から見れば全くもって意味不明ですが、これに対し
公理系Tは自身の無矛盾性を証明できない
という数学的命題は、その厳密な数学的定義は専門外の人からすれば多少なりとも難解であるにも関わらず、文面だけを見てみれば、誰でも何となく理解できたような気になってしまいがちである点が違うところです。
「T自身の無矛盾性」なる概念は、証明可能性述語やらを使って長い長い道のりを経て厳密に数学的に定義されるもので、その道のりを理解できなければ、主張の意味も理解できないというものです。